『おばあちゃん孝行』とは、おばあちゃんのためにするもんじゃない、自分のためにするんだ!
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今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
オレには同居するおばあちゃんがいた。
もう死んで10年近く経つ。それでもその教えや思い出はオレの中で今でも生きている。
おばあちゃんは育ての親だった
(父方の)おばあちゃんとは同居していた。
オレの両親は、オレが小さい頃共働きだったので、その頃すでに引退して無職になっていたおばあちゃんはオレの子守りをしてくれていた。
よくよく考えると、家に帰るといつもおばあちゃんがいたので、母親よりもオレの生涯の中で接している時間は長かったのだ。育ての親だった。
お金はあまり持ってなかったが十分だったと今は思う
全くこづかいをくれなかったわけでは無いが、小学校の頃夏休みや正月明けなどで、友達との会話でよくおばあちゃんちに言ったら〇〇を買ってもらっただとか、お年玉を数万もらっただとかの自慢話になるが、周りのみんなのそれと比べるとうちのおばあちゃんはあまり物を買ってくれなかったし、お金もくれないなぁ・・なんてゲンキンなことを考えていたオレだった。
でも今となってはそれ以上のものをオレは与えられていたんだと理解できる。
オレが育つためにかけた労力、人件費、人工に換算すれば、そんな数万のお年玉や、おもちゃ代など屁みたいなものである。
何より愛情を感じてたし、一緒に過ごした、生活した時間はそれこそお金でかえない価値があった。
ことわざを教えてくれた
色々教えてくれたんだろうけど、記憶に残っているのはことわざをいっぱい教えてくれたことだった。それは理にかなったものだし、普遍的な内容だった。何かに迷った時、悩んだ時、調子に乗りそうになった時に今でもそのことわざたちはオレに教えてくれるのだ。
おばあちゃんとの距離
20歳を過ぎてオレが家を出ることになると、おばあちゃんとの距離は増すばかりだった。単純に一緒に住まなくなったというのと、母親が子育てが終わったので仕事を引退したため一緒にいる時間が長くなった母親とおばあちゃん(姑)の確執により、おばあちゃんも実家を離れてしまったのだ。
おばあちゃんのために孝行したかった
おばあちゃんが調子悪くなったらどうしよう、死んでしまったらどうしようと比較的元気な時からよくそんなことを考えていた。
母親よりも誕生日プレゼントとか渡してた気がするし、恩返ししたいと思っていた。しかし、オレ自身も色々と忙しくなってしまい、会うタイミングといえば怪我をして入院した時だとか、病気で入院してしまった時なんかになってしまった。
おばあちゃん孝行は元気な時にしなければできないのだ。
そして、90過ぎまで長生きはしたものの、ほぼ寿命のような感じで死んでしまった。
おばあちゃんはおばあちゃん孝行を望んでいたか
その後、時はたち、後数年すれば今度はオレがおじいちゃんになるかもしれないという状況になっている。こればっかりはいつなるかはわからないが・・・。
孫はまだいないからわからないが、子供についてもそうだが、オレは孝行して欲しいなんて思ったことはあるか?これから先も思うのか?
と考えた時、孝行してもらえばそれは嬉しいが、別に何か自分に対して孝行して欲しいだなんて全く思ったことはない。これからも思わないだろう。
ただただ、元気で楽しく生きて欲しい、それだけが望みだし希望だ。
その反面オレはもっとおばあちゃん孝行をしておけばよかったと思っている。
自分のためだったのか・・・
結局、おばあちゃん孝行とは自分のためだったのである。自分の欲求を満たすためだったということ気づくことになった。
自分が後悔しないために・・・。
これは親に対しても、もちろん言えることなんだろう。
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